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第1章 第3話 眠れぬ夜

作者: 森村征爾
last update 公開日: 2026-08-28 15:35:20

東市の研修所に到着したのは、夜もすっかり遅くなった頃。

長い移動を終えたバスが建物の前に停まると、車内に残っていた実習生たちは一斉に立ち上がる。

介護の仕事をする実習生だけではない。

建築や飲食など日本の企業で働く予定の実習生たちも同じバスに乗っている。

国も年齢も、これから就く仕事も違う。それでも今は皆、日本という見知らぬ国で最初の夜を迎えようとしている仲間だ。

係の人に案内されながら、慌ただしくスーツケースをバスから降ろしていく。

長旅で身体は重かったが立ち止まっている余裕はない。自分の荷物を引きずりながら建物の中へ入り、割り当てられた部屋を探した。

二人一部屋。

部屋の名前を確認して扉を開けると、先に入っていたのはアンジェ。

「アンジェ……」

知っている顔を見つけたことで少し肩の力が抜けた。

「同じ部屋だね」

アンジェも笑ってくれた。

初めて訪れた日本、見知らぬ土地。

見知らぬ人ばかりの中で少なくとも一人でも顔を知っている人がいる。それだけのことなのに不思議なくらい安心できた。

それぞれの荷物をベッドの脇に置き黙々と荷解きを始めた。

アンジェは一通り荷物を出すと部屋に備え付けられていたテレビのスイッチを入れると画面には日本の番組が映り出演者たちが早口で話している。

しばらく画面を眺めていたアンジェが、苦笑いを浮かべた。

「日本語、早すぎてわかんないね」

「うん。全然わからない」

二人で笑った。

アンジェの手は止まらなかった。

スーツケースの中から一枚の写真を取り出すとベッドの脇にそっと立てかける。

「両親や兄弟たちだよ」

写真には、皆で肩を寄せ合って笑っている家族が写っている。

「みんな、いい顔してるね」

「うん。私の大事な家族」

アンジェは写真を見ながら誇らしそうに笑っていた。

「兄弟たちもね、他の国で働いてるの。皆でお金を貯めて、両親に家をプレゼントするんだ」

そう話すアンジェの声には、冗談ではない強さがある。

「すごいね」

「絶対にするの。今の家は古いから」

鼻息を荒くしながら話す姿に私は思わず笑った。

日本へ来る理由は人それぞれなのだろう。

私には私の事情がありアンジェにはアンジェの事情がある。

同じバスに乗っていたあの人たちにも、それぞれ日本へ来なければならなかった理由がある。

生活のため、家族のため。

自分自身の未来のため。

きっと皆、何かを背負ってこの国までやって来たのだ。

私たちは、そのことを深く話すことはない。

長い移動で疲れていたし明日からは研修が始まる。

シャワーを浴びて、それぞれ簡単に明日の準備を済ませると私たちはベッドに入る。

部屋の明かりを消すと静かだ。

さっきまで聞こえていたテレビの音もなくなり、窓の外からかすかに車の走る音が聞こえてくる。

明日からの研修予定を頭の中で繰り返し思い返す。

朝は何時から朝食だっただろう。

集合場所はどこだったか。

日本語の研修もある。

介護についての勉強も始まる。

ちゃんとついていけるだろうか…。

そんなことを考えているうちに隣のベッドから小さな物音が聞こえた。

寝返りを打ったのだろうと思った。

しばらくすると、また同じ音がする。

身体を起こして隣を見る。

アンジェは頭から布団をかぶっていた。

その身体が、ほんの少し震えている。

時折、布団の中から嗚咽が聞こえてきた。

泣いているのか……。

私は何も言えず、しばらくアンジェを見つめていた。

さっきまで、あんなに楽しそうに家族の写真を見せてくれたのに。

両親に家をプレゼントするのだと、あんなに嬉しそうに話していたのに。

きっと、不安なのだ…。

日本という国に来た。

言葉も違う、生活も違う。

これから始まる研修内容もまだ何もわからない。

家族と離れて暮らすことだって、想像していた以上に寂しいのかもしれない。

でも、それはアンジェだけではない。

この研修所にいる実習生の誰もが、今夜は同じような気持ちを抱えているのではないだろうか。

初めて過ごす日本の夜。

遠く離れた家族。

ホームシックにならないほうがおかしい。

私だって寂しくないわけではなかった。それ以上に明日から自分がどうなるのか見えないことへの不安が大きかった。

日本で働くためには、ここで立ち止まっているわけにはいかない。

他人を心配する余裕はない。

でも…。

声をかけるべきか…。

「大丈夫?」

そう言えばいいだけなのに、その言葉が出てこなかった。

今はそっとしておいたほうがいいのかもしれない。

窓の外を見ると、道路を走る車のライトが一瞬だけ部屋の天井を照らし、すぐに消えていった。

遠くから、電車がゆっくり走っていく音が聞こえる。

地面を揺らしながら鉄のレールを走る電車。

日本で迎える最初の夜。

天井を眺めながら目を閉じた。

眠れない、全身が旅の疲れで重くなっているはずなのに。

隣では、アンジェがまだ泣いている。

そして私もまた、遠く離れた故郷と家族のことを思いながら、眠れぬ夜を迎えていた。

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